PIAZZA NERO誕生の経緯

昭和55年当時、いすゞは昭和58年10月を目処にした中期経営計画を進めていました。 この計画は、GMの世界戦略に沿ったGM提携強化が大きな骨子であり、GMワールドカーの国内生産や国内乗用車販売体制確立等がが同計画の柱となっていました。
特にGMが発表したJカーの国内販売が控えている事もあり、国内乗用車販売網 の整備は重要なものになっていました。

そこで、いすゞ社内では昭和55年8月頃から既存の販売系列とは別の新チャンネル展開など販売網の充実を検討していましたが、その時にヤナセとの提携が検討されました。ヤナセのネームバリューと、その200店舗の販売網はいすゞに取って大きな魅力であり、その為昭和56年初頭にいすゞ岡本社長からヤナセ梁瀬社長に対し販売提携を申し入れたのです。

一方ヤナセは当時国内大型外車販売が不振であり、それがGM車の販売減退に繋がって、経営情況が厳しい状況でした。ヤナセとしては、輸入外車市場の冷え込みに伴う実績減少分を当面はピアッツァで埋め合わせる事が出来る事や、現体制のまま新事業部を作る事により活気が生まれ社内の空気がリフレッシュする事、収益率の向上等のメリットがある事等の理由から、昭和56年1月から3月末まで提携に関しての検討を続けました。

そして、取り引き先のメルツェデス・ベンツ社,VW社,GM社及び主要銀行の了解が得られれば提携に踏み切る事になり、これらの合意が得られた為、ヤナセがいすゞへ全面的に協力する事になったのです。(いすゞとヤナセのメインバンクが共に第一勧業銀行であった事も提携の了解がスムーズに得られた理由の一つと言われている)

これに伴いヤナセではいすゞ車担当部門として「いすゞ営業部」を新設し、ディストリビューター業務を行う事になりました。発売当初のピアッツァの販売目標は月3,000台、その内500台をヤナセが販売する事になりましたが、いすゞ乗用車系ディーラーで販売されるピアッツァと直接の競合を避ける為、内外装をヤナセ特別仕様とし、限定車的色合いを持たせたピアッツァ・ネロとして発売する事になったのです。